ブログ「川辺にて思う」

チェトナの愛のこと


独身ですけど、それが何か。

なーんて、うそぶく気はさらさらありません。

「システミック恋愛講座」なんてやってしまうと、
ちょっと独り身でそんな仕事をしても説得力がないと、
遠巻きにつっこみが来るもので、
一応、個人的なことでも説明しておいた方が良いかなと思い、
語ってしまうことにしました。

それにアルブレヒトも、
今回来日してから今日までに、
すでに2回も聞いてくるもので・・・

今日、アルブレヒトとブリギッタと一緒に昼食をとっていたときに、
「この頃はどんな活動をしていて、今後どのように仕事をしていきたいと考えているの?」
と聞かれました。

今後10年間に私がどのようなことを、
どのような方向性で展開させていきたいと願っているかを話し、
また、
先日、「システミック恋愛講座」を開催し、
かなり好評だったことを伝えました。

それを受けて、
アルブレヒトの友人にドイツで、
やはりパートナーシップについてのセミナーを開催している人がいること、
そのセミナーに参加した人の中から、
何人もカップルが生まれているという話をしてくれました。

「良かったら君も参加してみると面白いのではないかい?」

そこで、アルブレヒトがつまり何を言いたかったかというと、
『人に教えてばっかりいないで、君もそろそろ自分に見つけたらどうだい」的な・・・・
感じです。

アルブレヒトが私をからかいつつも心配してくれるのは、
3年か4年前のドイツのインテンシブから2回目です。

要するに、
会うたびに私がいつまでもシングルでいることを
からかっては心配しているということです。

ドイツ人にとっての家庭というのは、
パートナーが一緒にいる場所を指し、
必ずしも「家」という建物を込みで家庭としている感じではなく、
ちょっと日本人とは感覚が違います。

そんなこんなで、
ドイツ人的に、
しばらく「つがい」になっていないチェトナを見ると、
つい心配してしまうのでしょう。

ちょっと辛辣なことを書きますが、

独り身になってからの数年間に、
離婚を経験した中年女性が社会的にどのような立場に置かれ、
どのような扱いを受けるのかということを、
骨身にしみて経験しました。

私が結婚していた間、
仕事での関係先の良い人と思っていた社長や、
また良き友人だと思っていた人が、
夫がいなくなった途端に豹変し驚いたことがあります。

浅ましい類いの男性は、
いきなり、そのような女性は寂しくて男を求めているという幻想を抱くらしく、
かなり下品なアプローチをされたこともありましたし、
また、
そのような女性はすぐにも再婚相手を目を皿のようにして探しているという妄想を抱き、
こちらを特売品の中でも、
さらに売れ残りであるかのようなマナーで接してこられたりという、
あきれるほど失礼な扱いを受けたこともあります。

しかし、万が一、まさか、例えそうだとしても、
こちらだって選ぶ権利があるという可能性を考えない厚かましさには、
さすがにびっくりしました。

少なくとも間違ったっておめーじゃねーし。

ひとりになってからのこの9年間、
システミック・コンステレーションの基盤を堅固なものにするために、
それこそ命がけで仕事をしてきました。

父が意識不明で入院している最中に、
病院に仕事の道具を持ち込み、
人工呼吸器をつけた父の枕元で、
いつ呼吸が止まるかわからない父の様子に神経を張り巡らしながら、
「愛の法則」の翻訳を手直ししていた頃のことです。

いつ容態が激変するかわからないにも関わらず、
ワークショップのために出張しなくてはならなかった日々、
引き裂かれそうな心を抱えて、
参加者も人生をかけて来てくれるのだから応えなくてはいけないと、
参加者と父の命を天秤にかけて、
私は飛行機に乗っていました。

私はそれらの経験から非常に多くのことを学びました。

それまで見えなかった、
いわば社会通念上の離婚のイメージであるとか、
独り者に対する根拠のない冷たい視線とか、
それがどこに由来し、
集合無意識がどのように作用するのかなど。

「つがい」でいることだけでは幸福ではないにも関わらず、
「つがい」でない状態への恐れを投影する対象がいることの安心感。

「つがい」でないものを選別することだけで安心し、
「つがい」でいる自分の得ているものが真実の幸福かを問うことへの怠慢の維持など。

私が結婚していた間には決して得ることのできなかった数々の洞察を、
私はこの頃につかんでいます。

この時期の多くの経験が、
結婚の価値や、
離婚の意味するもの、
パートナーシップへの理解、
恋と愛、
孤独の価値、
気高さと、
尊厳を教えてくれました。

与えられていたものを当然としていた時期には、
決してわからなかったことばかりです。

だから今、
私は落ち着いて
「恋愛講座」
を開催することができるのです。

現在の私のハートは閉じてもいないし、
開いてもいない状態に浮かんでいます。

開く用意だけがあります。

「縁」が、あれば出会うでしょう。

私に「縁」がなければ、
それだけのことです。

「縁」があれば、
私に「愛」を注ぐ対象が生まれ、
私は「愛」を受け取ってもらえて幸せになります。

私に「縁」がなければ、
私は「愛」を注ぐ代わりに、
孤独と手をつないで生きていきます。

少なくとも私は自分が、
自分の寂しさを埋めるために
他人を利用しないことを知っているので、
誰の尊厳も傷つけず、
むやみにもつれることがありません。

ここ数年間で、
孤独では死なないことが実証されたので、

寂しいことを理由に出会いを焦るには、
もう自分がもったいないのです。

伯父の年齢の半分を超えて、
今さら子どもを産むわけではないので、
もしも恋をするような出来事が万が一にも起きるなら、
できるだけ早くその時期を通過できるような、

例えば茶飲み友達から、
老いらくの恋、
というより、
老いらくの愛へ移行するなんてことがあったら、
それにはちょっと憧れちゃうかな。

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